2012年10月31日水曜日

給与を考える


給与を考える

今回は 給与について考えてみます。
サラリーをもらって仕事をするということはどういうことなのかを
少し考えてみるというのも 時には良いですよね。

私はひと昔前 転覆しつつある会社という船から
社員をひとりひとり下船させ 安全な場所に避難するまで
船が沈没しないように走行させるということを支援しましたし
実際に自分自身も船長になって舵を握ったことがあります。

その時 残ってくれた社員の多くは
何もかも投げ出して逃げ出したいと思っておられたに違いないのですが
義理と人情と自分自身へのケジメとでも言いましょうか
過去には私から罵倒されたり叱責されたりしたことに対して
文句も言わず黙々と仕事をして頂いたことを思い出します。

そんな仲間に対して 私は思わず頭を下げ
手を合わせて感謝の気持ちを伝えたことを思い出します。
給与もろくに払えなくなっている会社に
最後まで付き合ってくれている社員の姿から
その時 教えられたんですね
「日々会社で働くということは 我慢と忍耐の連続であり
 給与というのはそのガマン料なのかもしれない」とね。

就職活動を通して会社を選ぶなら
あるいは 今の会社に不満が鬱積して転職を考えているなら
給与が高いとかキャリアアップが図れるなんていう基準で会社を選ぶより
この会社が行き詰った時
自分は会社の最後を看取る社員になる覚悟はあるかどうかで
決めるようにするのが良いのではないでしょうか。

給与が高いということは ガマン料が高いということなんですからね。
高給取りのサラリーマンの方と出会ったなら
羨ましいと思うより 大変なお仕事ですねと
労りの気持ちを持って接しなきゃ失礼なわけですな。


話し下手

今回は 話し下手について考えてみたいと思います。
営業マンとして華々しく活躍したわけではないので
大きなことは言えませんが
営業を長くしていますと 話がうまいだろうと良く言われます。

しかし 振り返ってみますと
営業として活動していた頃の自分は
営業トークに長けていたとは思えないんですね。
どちらかと言えば 口下手でポツンポツンとしか話せない自分に
とても もどかしく思っていまして コンプレックスだったんです。

ですから 未だに口下手というコンプレックスは拭えずにおりまして
初めてお会いする方と話をするには
かなりの覚悟が必要となってしまいます。
お恥ずかしい話です。

・・・で 考えてみたんです 営業をするのに
流暢な営業トークというのは 本当に必要なのか ということです。

これまでいろいろな方とお話をする中で
営業というものに誤解があることに気がついたんですね。
営業というのは お客様に何かを売り込むものだと
考えおられるみたいなのですが
実は その考え方には 少し疑問がありまして
営業の本質というのは お客様の本音を聞き出すことではないかと
思っているんです。

お客様は いま何が欲しいと思っているのか
手に入れる為にはいくらまでなら用意出来そうなのか
いつまでに決めたいのか
の3点を聞き出すことが営業という仕事だと思うのです。

ですから あまり流暢に喋りすぎてしまうと
必要のない情報まで提供してしまって
お客様が混乱したり
判断を躊躇したり
面倒臭くなってしまったりしてしまいましてね
いつまで経っても モノを買ってもらえないということになるわけです。

思うに 営業として実力を高めるには
たて板に水のように商品の説明が出来たり
PCを使って見事なプレゼンが出来たり
トークが上手かったりするといった
自分からのアウトプットに注力するより
相手に気持ち良く話をして頂くには どうすれば良いかという
インプットの技術について追及する方が大切なような気がしているのです。

話下手の自分がコンプレックスになっておられる営業の方ほど
人の話を聞くことに注力出来ますから
優秀な営業マンあるいは営業ウーマンに
近いということなのかもしれませんね。

ちなみに 私は
口下手
接待下手
社内ネゴ下手で 営業をしておりました。
お客様から お前は接待の基本を知らないと 怒られたことがありましてね
接待の仕方とはどうするものか お客さんに教えてもらったことがあります。
もちろん おごってもらってですよ

でも いまだに 接待をしようとしても
接待という空気を作ることが出来ないんですな ・・・
話に夢中になっちまうんだすわ 仕方ありませんね。


無欲の人

「私は出世なんかしなくていいです
 毎日を楽しく過ごせることの方が大切ですからね」
新入社員の教育を始めると
必ずこういう発言をする若者がいますよね。

アルバイトでしっかりと稼いだ経験があり
さらに 趣味も多彩といった輩ほど
この傾向が強いように感じます。

確かに 出世や名声を求めるような発言をする輩というのは
何となく傲慢さが鼻につくようなところがありますが
しかし だからといって無欲を装っている姿は
私から見ると 無気概である自分の本当の姿に無欲という衣を
被せているに過ぎないように思うわけです。

これまで いろいろな方とお会いした中で
これはなかなか味のある方だなと思った方というのは
どちらかというと不器用な生き方をされていることが多く
「よし ひとつやってみるか」という軽いノリでチャレンジをし
痛い目にあった経験を豪快に笑いながらお話されたりするものです。

やはり 無欲を装って心の底では
タナボタを狙っているような要領の良い若者より
大志を抱いていまの自分が出来ることを
コツコツとやっている若者の方が
将来 必ず頭角を現すと思うのですがいかがなものでしょうかね。


出来ることから

新規ビジネスを考える時のキーワードを「壁を破る」として
小さな会社の新規ビジネスモデルの組み立て方についてお話をしましたが
私達の生活には この壁という奴があちらこちらに存在していますね。

例えば 中高生が受験勉強をする時ついつい出てくることばが
「学校で習っていませんから 出来なくても仕方ありません」

これが学生さんになると
「私の専門ではないので 分かりません」となり

さらに社会人になりますと
「仕事が忙しくて 時間がないのです」となるわけです。

壁というやつは 自分の内なる壁となる能力と
外なる壁である自分を取り巻く環境や金銭的な問題とがあります。
こういう壁にぶち当たって ちょっとやそっとの努力では
乗り越えられそうにないことが分かると
ついつい無条件降伏してしまいたくなるものです。

そうしましたら 言い訳のオンパレードとなるわけですな。
その理由というのは
壁そのものを恐れ
失敗することを恐れ
長期に渡って壁と戦い続けることに恐れをなすからなのです。

ここで ひと言
「言い訳を考える暇があったら
 いまの自分がすぐに取り掛かれることを探し出し
 まず そのことに集中し壁の隅っこでもいいので
 傷つくまで続けることですな」
・・・多分ね。
あ~これ いまの自分自身に言い聞かせているわけです ハイ


無駄

生きていると 楽しいことより
辛いこと悲しいこと心配なことの方が
多いように思いますがどうでしょうか。

辛いことや悲しいことは
散歩したり 運動したり 酒を飲んだりしているうちに
忘れてしまうものでしょうが
この心配ごとというのはちょっと厄介ですね。

心配するというのは 
「どうしよう」
「どうなるんだろう」
「どうしたらいいんだろう」と漠然と思っていることであり
何ら解決策を編み出すことにはならないのですね。

心配のスパイラルに陥ると心底疲れますので
自分は考えているつもりになりますが
ほとんどは杞憂に終わってしまうので
自分が流されてしまった時間を振り返ることを妨げてしまうものです。
ここで もう一度再認識する必要がありますね。
考えるということは 闇雲に心配することではないということです。
心配することのほとんど そうですね9割くらいは
具体的にならないものであり残りの1割が
現実化して自分に襲ってくるものです。

ですから この1割の心配事に対して
いまの自分の出来ることを考え
行動にうつすことが大切なのではないでしょうか。
そうなんです
ウジウジと心配するだけは何も変わらないのです。

心配事が頭を支配し始めたなら
心配をするだけなら無駄なことと
自分を戒めなければならんということですな。
難しいことではありますがね。


ハードル

仕事上で 何か目標を立てて実行するときというのは
達成する為のハードルが高かろうが低かろうが
どんな目標であれ
ひとりで実行することは出来るものではありませんから
協力者を募る必要がありますので
到達するまでに必要とされる労力というのは
そんなに違いは無いのかもしれませんね。

そうならば 出来るだけ高い理想を掲げ
難しそうな目標に挑戦する方が良いのかもしれませんね。
ハードルは高いほど良いということかもしれませんな。


タラレバ

ゴルフに没頭していた頃
良く先輩から言われたのことは
「たらればを言うようでは まだまだだね。もっと練習しなさいや。」とね。

どうも ゴルフという奴は
自分の弱い部分が表面化するようでウジウジと
「あの時 欲張らずにアイアンで攻めていれば
 池ポチャになんかならなかったのにクヤシィー!」などと
いつまでも未練がましく愚痴ってしまうわけです。

良く考えてみると「もし そうだったら」という考え方は
発想の転換を図るには とても良いキーワードになると思うのです。

いや もう少し視点を変えて「もし そうでなかったら」という発想から
入るほうが良いのかもしれませんね。

もし あの時あの人と一緒にあの話にのっていたら
・・・いまは億万長者だな
もし あの時あの会議であいつに反論していたら
・・・辞めずにあの会社の役員だったな
こういうふうに考えてしまうと
思考はストップし後悔が頭を支配するのですが
視点を変えると新しい発想への道が開けてきます。

もし あの時、あの人に出会わなかったら
・・・いまの自分は何をしていただろうか。
他の仕事をしていただろうか?
イヤやはり いまの仕事をしているに違いない。
ならば 愚痴なんか言っている場合じゃないな
もうひと踏ん張りするとするか。

もし あの会議に出席していなければ
・・・あの会社のあの嫌な部分に気が付くこともなく
会社を辞めることもなかったかもしれない。
しかし それは 決して幸せなことではなかっただろうな。
そう言えば あいつは あの会社の役員になって
苦労しているようだしね。
いまのこの自分で良かったのかもしれないな。

このように 切り口を逆から見るだけで
ネガティブな発想からポジティブな発想に 切り替えることが出来ますね。
仕事に行き詰ったり
生活に疲れたり
人と付き合うことに自信が無くなった時
ちょっと試してみる価値はあると思いますが どうでしょうか。


違和感

驚いたことにマリンくらいの体重だと
PCのキーバードにノッカテモ 全然平気なんですね。
リクの時は 変な文字が画面一杯になって
「ピピピピピ・・・」っていう音がしたんですが
マリンだと 何も起こりません。

軽いんですな~ このまま大きくならなくて
愛くるしさを振りまいてくれればいいのにね。

今回は 違和感 について考えてみたいと思います。
人と会ったとき
この人とは付き合えないなと直感的に思うことってありますね。

これは 論理的なものではなくて
これまでの経験を通じて付き合って良い人と
そうでない人の色分けがその人の中に出来上がっているが故に
直感的に感じ取っているのだと思うのです。

しかし ちょっと大人になってしまいますと
この直感を打ち消すような言い訳を探し出します。
会社の肩書きだったり
過去の実績だったり
人の噂だったりしますが
この人とは付き合えないと感じていた自分を
この人は立派な人のはずだと置き換えてしまうのですね。

でも 付き合っているうちに
再度誤魔化していた違和感がムクムクと目覚め
ある時 決定的な決裂をもたらすことになったりします。

人も動物ですからね直感という奴を
無視するような生活をしてはならないのではないかと思うわけです。

人と出会い
製品との出会い
情報との出会い
全てにおいて違和感を感じたなら
それを誤魔化してはならないではないかと思うわけです。

特に ニュースや噂を見たり聞いたりした時
違和感を感じたなら
その感覚を大切にしなければならないと思うわけです。
でないと 違和感を誤魔化して行動を起こしたとき 
最近は社会環境の変化が早いですからね
後から払わなければならない代償というやつは
手のつけようの無いほど大きくなってしまう
なんていうことが起こると思うわけです。

そう 我々一般庶民は
感性を磨いて 悪意に満ちた外敵から
自分の身を守る必要があるのです。

嘘を見抜く為にも本物に拘った生活をして 感性を磨きましょう!


沈黙を楽しむ

若い頃
お客様と面談していて
予期しない質問をされてしまったときのパニック状態と言えば
そりゃ~もう大変なものでした

必死に質問の本質を見極め返事をしようとするのですが
焦れば焦るほど長い沈黙が続くことになるわけです

居たたまれなくなって収拾のつかない状況のまま
逃げるようにしてお暇するときの格好の悪さといったら
ありゃせんですわな

それが準備万端で臨んだつもりの
打ち合わせだったりしたときには
対人恐怖症になってしまうくらい
ダメージは大きいですわな

そんな逆境をこの歳までどうやってくぐり抜けてきたのかは
もう記憶にありませんが
歳を重ねるにつれこの沈黙の間を
楽しめるようになってきたのは確かです

お客様からの予期しない質問に対して
自分がどんな反応を示すのか
この逆境をどんなふうにしてくぐり抜けてゆくのか
もうひとりの自分が楽しんでいるわけです

予期しない話題を投げかけられたとき
脳みそに汗をかきながら考えている
「この間」を笑いで吹き飛ばせるようになるまで
訓練をせなあきませんわな


騙されるということ

仕事と正面から向き合って取り組んでおられる方というのは
ものごとを深く考える癖がついておられるものです
どんな風に仕事をすれば 家族を守ることが出来て
何をしておけば 外敵から身を守れるか
そして どんな風に変わってゆけば仕事を続けられるか
その答えを持っておられるものです。

ですから人の言葉を聞くだけで
その人の仕事に対する姿勢が見えてしまうんですね
その場を繕うような上っ面だけの心のない言葉なのか
人に対する思いやりから発せられる厳しい言葉なのか
それとも 単に何も知らない無知なだけなのかを
本能が嗅ぎ分けて 危険信号を灯らせるわけです

ところが情報という奴は
美しい衣を羽織って私達の前に現れますから
せっかく本能的に危険だと感じたとしても
この美しく飾られた情報に コロッと騙されてしまうわけです

これを異性に惚れる時と一緒じゃないかとは言いませんが
近いモノがあるやもしれません

美しいモノには弱いですわな ・・・ 仕方ない